引っ越しで、いちばん気を遣ったのが、ログインのパスワードだった。教室のオーナーは、それぞれ自分のパスワードで管理画面に入る。裏側を入れ替えたとき、そのパスワードが使えなくなったら、全員に作り直してもらうことになる。
それだけは避けたかった。引っ越しは、こちらの都合だ。その都合で、使う人に手間をかけさせたくない。
パスワードは、そのままでは持っていない
まず大事な前提がある。古い仕組みは、パスワードそのものを保管していない。パスワードを、元に戻せない形に変換した「合言葉の指紋」だけを持っている。ログインのたびに、入力された文字を同じやり方で指紋に変え、保管してある指紋と照らし合わせる。
これは安全のための、当たり前の作りだ。だから引っ越し先でも、同じ指紋を照らし合わせられないと、既存のパスワードは通らなくなってしまう。
同じ変換のやり方を、そっくり再現する
やったことは単純だ。古い仕組みが指紋を作っていたやり方を、新しい仕組みでも一字一句そっくり再現した。混ぜる隠し味の順番も、区切りの入れ方も、変換の回し方も、寸分違わずそろえる。
そろえさえすれば、同じパスワードからは、同じ指紋が出る。保管してある指紋も、そのまま引き継ぐ。結果として、家族もオーナーも、これまでと同じパスワードで、何事もなく入れる。引っ越したことに、気づく人はいない。
ここで少しでも横着をして、指紋の作り方を新しい流儀に変えてしまうと、全員のパスワードが一斉に通らなくなる。新しいやり方のほうが今どきで綺麗に見えても、今回は選ばない。古いやり方を、そのまま忠実になぞる。移行のときは、正しさより、これまでと同じであることを優先する場面がある。
全体を開ける親鍵も、そのまま
仕組みには、私が全体を見るための親鍵も用意してある。緊急のときや、新しい教室を追加するときに使う、特別な鍵だ。これも古いものを、そのまま引き継いだ。
親鍵の扱いは、便利さと危うさが背中合わせだ。だからこそ、引っ越しのついでに軽々しく変えない。動いているものは、動いているやり方のまま運ぶ。それが、鍵をめぐる事故を防ぐ。
移行とは、相手に気づかせないこと
引っ越しがうまくいったかどうかは、静けさで分かる。パスワードが通らない、という問い合わせが、一件も来ないこと。それが、いちばんの合格点だった。
新しくするときほど、使う人に「新しくなりました、登録し直してください」と頼みたくなる。けれど本当にうまい移行は、相手に何も気づかせない。裏で全部を入れ替えて、表向きは昨日と同じ。次の回は、家族へのお知らせを届ける受け口を、自分たちの側に持ってきた話を書く。